ねむの木学園の歴史で知る 日本の障がい者福祉50年の歩み

ねむの木学園の歴史

宮城まり子さんが「ねむの木学園」を創設する契機になったことの一つが、1960年に脳性麻痺の子どもの役を演じたことと伝えられています。その当時はまだ、重度の障がい児は、義務教育をうけることが出来ませんでした。日本の障がい者福祉制度の歩みを「ねむの木学園」の歴史と重ねながら紹介します。

○1960年頃の社会と障がい者

「ねむの木学園」創設期の日本は、児童福祉法、身体障害者福祉法、学校教育法などにより、国としての福祉制度はある程度整備されていました。

しかし福祉制度の主な目的は、訓練によって障がい者を経済的に自立させることで、それが望めない知的な障がいをともなう重度の障がい児者は、分離隔離して保護する対象とみなされていました。この時代に世界の先進国では、すでにノーマライゼーションが提唱されています。

重度障がい児は、義務教育の就学が免除または猶予され、教育を受けることが出来ませんでした。

「肢体不自由児施設」と「精神薄弱児施設」は制度としてありましたが、いずれも独立自活に必要な知識を与えることが目的の施設で、重度重複障がい児は制度の狭間で対象外、家庭での療養が困難な場合、居場所がない状況でした。

1963年の「島田療育園」「びわこ学園」、1964年の「秋津療育園」は、医療法に基づく病院として認可されています。

この時代はすでに、福祉は行政措置でその費用は「措置費」で、実施者は「社会福祉法人」というスキームです。

「ねむの木学園」を始動するには、社会福祉法人の認可を得て、制度の狭間で法の規定がない重複障がい児が生活する学校を国に認めさせ、活動ができる額の措置費の給付を受ける必要がありました。

○1968年「ねむの木学園」開園

「社会福祉法人ねむの木福祉会」が認可され、「養護施設ねむの木学園」の設置が認可されたのは1968年です。静岡県浜岡町に「ねむの木学園」が開園しました。入園した園児は8名だったそうです。

その2年前の1966年には、「特別児童扶養手当法」公布され、重度精神薄弱児扶養手当法が改正され,手当の支給対象が重度の身体障がい児に拡大されました。

1967年には児童福祉法と精神薄弱者福祉法が改正され、重症心身障害児施設と授産施設が正式に福祉施設と規定されました。この内重症児施設は、児童福祉施設であるとともに、医療法に基づく病院であるという二つの法の下に規定されています。病院ではない、障がいのある児の養護施設として認可されたのは、「ねむの木学園」が最初です。

1969年には、就学免除または猶予された重度の身体障がい児が通所する施設として、「肢体不自由児通園施設」事業が開始され、養護学校が就学義務化になる1979年まで続きます。

○1973年「肢体不自由児養護施設」が誕生

オイルショックとインフレに襲われた1973年は、当時の田中角栄内閣によって、障がい者福祉が進められた年でもありました。国電中央線にシルバーシートが導入されたのもこの年です。

「療育手帳制度要綱」が厚生省から通知され、また養護学校の就学免除猶予制度を改め1979年から全入制度にすることが閣議決定されています。

「ねむの木学園」に直接関わる制度改正としては、厚生省から「肢体不自由児養護施設」の設置が通達されました。病院に入院する必要はないが、家庭での療養が困難な子ども受け入れる「肢体不自由児養護施設」を、養護施設の種別に加えるとしています。

そして正式な施設となった「肢体不自由児養護施設」への措置費が引き上げられました。

また正式な学校ではない養護施設入所児童でも、「その能力、性向等に照し高等学校に進学させることが適当であると認めたもの」は、高校に進学できるとしました。

入所施設であり学校でもある「ねむの木学園」が公的に誕生したのは、1973年とみなすべきかもしれません。ただしこの時点では、肢体不自由児養護施設に入所していられるのは、19歳までとされています。

翌1974年には、特別児童扶養手当法が改正され、重度の知的障がいと重度の身体障がいが重複する特別障害者に、特別福祉手当が支給されるようになりました。

○1979年「学校法人ねむの木学園」設立

1979年4月、就学免除猶予を撤廃、養護学校教育の義務制が実施されました。

この年「ねむの木学園」は、「学校法人ねむの木学園」が認可され設立、そして「ねむの木養護学校」が認可され設立されています。学級数6、定員63名であったそうです。現在の校名は「特別支援学校ねむの木」に改称されています。

一方1979年にはユネスコ総会で「特殊教育に関するユネスコ専門家会議の結果」報告が行われ、障害児が普通の学校に行けるようにするための施策の必要性が報告されています。すでに世界では、ノーマライゼーション、インクルーシブ教育の概念が芽生えていますが、日本では養護学校教育の義務制により、原則分離の教育形態が障がい児教育の強固な基盤となり、現在まで続く課題となっています。

この年5月の厚生省令改正により、「肢体不自由児養護施設」は「肢体不自由児療護施設」に改称され、同時に20歳以上でも入所が継続できる法改正が行われています。

○1981年国際障がい者年

日本の障がい者福祉行政に大きな影響を与えたのは、1980年代の世界の動きでした。1981年「国際障害者年」、1982年「障害者に関する世界行動計画」採択、1983年~1992年は「国連・障害者の十年」です。この時期に日本でもノーマライゼーションの理念が普及し始めました。

「ねむの木養護学校」では、1981年3月に高等部の設置が認可され、同年4月に開校しています。

80年代になると「ねむの木学園」が主催する各地での美術展やコンサートが注目され、画集の出版なども行いました。1984年には当時の中曽根首相が視察にきています。

1985年には、天皇陛下より「ねむの木養護学校」に御下賜金伝達されました。

○1986年「ねむの木村」プロジェクト始動

国際的な世論の盛り上がりと、障がい者福祉の認知が進んだ1980年代は、日本でも従来施策をベースに関連法や各種の施策が変更されています。1986年には国民年金法が改正され、障害者基礎年金制度が創設されました。また1987年には、身体障害者雇用促進法が知的障がい者も対象とする障害者雇用促進法に改定されています。ただし精神障がい者への偏見差別は根強く、1984年には宇都宮事件が発覚し、国連人権小委員会から是正勧告を受ける状況でした。

1986年11月に、静岡県掛川市にある現在の「ねむの木村」の建設に関する初めての地元説明会が開催されています。現在でも障がい者施設の新設計画に対して、地元住民が反対することは珍しくありません。障がい者福祉の認知が進んだ時代になったとはいえ、様々な障壁があったことが想像されます。

○1994年「ねむの木村」建設開始

1992年に終了した「国連・障害者の十年」に続き、1993年からは「アジア太平洋障害者の十年」が始まります。

1994年には国連総会で『障害者の社会への完全統合に向けて、「障害者の機会均等化に関する標準規則」と「2000年 及びそれ以降への障害者に関する世界行動計画を実施するための長期戦略」の実施』が採択されました。

日本でも1993年には「障害者基本法」が公布。1994年にはバリアフリー法が公布されました。

「ねむの木村」は1994年に第1期造成工事が起工されました。そして同年4月には、当時の天皇・皇后両陛下が「ねむの木学園」をご視察され、大きな話題になりました。

○2000年代以後の障がい者福祉

2000年からの社会の大きな動きを総括すると、2006年国連で「障害者権利条約」採択、2011年「障害者基本法」改正、2012年「障害者総合支援法」成立、2013年「障害者差別禁止法」成立、同年「障害者雇用促進法」改正、そして2014年には「障害者権利条約」を批准し日本は141番目の締約国になりました。

「ねむの木村」の建設は続き、1999年に開村式が行われています。2007年には「新ねむの木こども美術館」が開館しました。

2012年には法改正に従い「指定福祉型障害児入所施設」「指定障害者支援施設」に改組。

2014年には「指定特定相談事業 障害児相談支援事業ねむの木」が開所しました。

1960年代からの50年間、日本の障がい者福祉はこのように歩みました。

(本稿は2021年1月に執筆しました)

別稿で「日本の障がい者福祉 戦後から2020年まで75年の歴史をやさしく解説」を掲載しています。ご参照ください。