群馬県高崎市の観音山に「国立コロニーのぞみの園」が開園したのが昭和46年(1971年)です。この前後10年間ほどの期間に、全国で大型の障がい者入所施設が建設されました。現在の視点からみれば重度障がい者を隔離する施設、「コロニー」が建設された時代の背景や当事者の想いを紹介します。
○排除から認知の時代へ
戦後から始まる障がい者福祉政策は、身体障がい者の経済的な自立を支援するためのものでした。「愛される障害者」「社会のお荷物にならない障害者」など、求められる障がい者像がある時代で、重度重複障がい児・者は、社会から事実上排除されていました。
そのため、自立の可能性のない重度重複障がい児・者は、福祉政策の対象ではなく、就学免除や猶予により義務教育を受けることも出来ずに、各家庭の中で家族が介護していました。
昭和20年代は、当事者にならない限り、重度重複障がい児・者は存在すら知られない立場でした。
しかし民間の、当時の表現では「篤志家」による重度重複障がい児・者への支援は始まり、行政への助成陳情などは昭和20年代から行われています。
昭和30年代になると、「島田療育園」「びわこ学園」「秋津療育園」などの施設が、子供が入所する医療機関として認可され、初めて重度重複障がい児の居場所ができました。ただし大人の重度重複障がい者の入所は認められていません。
昭和30年代後半になると、芸能人による「あゆみの箱」募金、産婦人科病院による「おぎゃー献金」などが始まり、施設や家庭で生きる重度重複障がい児の存在が、不十分ながら社会に知られるようになりました。
昭和36年には、重度障がい児の親になった流行作家の水上勉氏が、「拝啓 池田総理大臣殿」を中央公論に掲載し、それに対し内閣官房長長官が「拝復 水上勉殿」を著したことで世間の話題になり、重度重複障がい児・者の存在の認知度が上がりました。
それまで社会から排除され、存在すら知られていない重度重複障がい児・者が、昭和30年代から徐々に社会に認知され始めました。
○「拝啓 池田総理大臣殿」にみる当事者意識
その当時の常識や当事者意識を、水上勉氏の「拝啓 池田総理大臣殿」から抜粋して紹介します。
「私たち(夫婦)は最初、この子がうまれた時、世にも不幸な親たちは自分たちではないかと思ったりもしたものです。ところがあとになって、私は、私の子と同じような症状の赤ちゃんが、この世に、なんと、何万人とも知れず生まれている、そうしてその子たちが半身不髄のまま今日も生きているということをきいてびっくりしたのです。」
「私は作家であります。この子のうまれた当日の模様や、親としてのかなしみや、新しく芽生えてきたこの子への愛などについて、考えるところもありましたので、そのことを、雑誌に、体験記ふうに発表してみたことがあります。すると、この私の文章を読んで、全国から約三百通あまりの手紙が私あてに届きました。それらはみな、私と同じようなかなしみをもち、身体不自由な子を養っていらっしゃるお母さんからの手紙なのです。私はふたたび、びっくりしました。」
「私の考えていることは、何とかして、歩かせてやりたい、それだけが切実な希望だったのであります。ところが、これらの手紙に接してからというものは、私の子も入学期がくることに思いが走り、どのような施設に入れて、義務教育をうけさせてやろうかと心配が起きたからにほかありません。ところが、しらべてみますと、軽症児童の学園や養育園でさえが満員で、なかなか入れないという母親たちの声が私にきこえてきました。つまり設備が足りないということなのでしょう、重症児は尚更であります。」
「日本の隅々に、学校へゆけない重症身体障害児が何万と放置されているということと、そうして、その子供たちが、高所得者の家庭によりも、低所得生活者の家庭に多いようにみうけられるからであります。私あてに、全国から集まりました身体障害者の手紙はそのようなことを明らかに示していたからです。」
「厚生白書という本に・・・・次のように書かれてあります。いわゆる重症心身障害児の問題がある。これは障害がきわめて重度であり、また二種以上の障害が重複しており、現行の児童福祉施設への収容は、実際上不可能である。現在は、民間団体において、収容療育の方法を研究中であるが、能力開発がとうてい期待しえないこれらの児童に対しては手厚い保護をよりいっそうに強化すべきであろう」
障がい者の親になるまでの水上勉氏の認識は、一般社会の常識を反映しています。厚生白書にみる行政判断は、専用の施設による保護の強化が示されています。
○コロニー懇談会の意見
昭和40年に厚生大臣の私的諮問機関として「心身障害者コロニー懇談会」が設置されました。委員には評論家の秋山ちえ子氏、ソニーの井深会長、そして近江学園長の糸賀一雄氏、整肢療護園長の小池文英氏、島田療育園長の小林提樹氏、みのわ育成園長の登丸福寿氏など座長以下17名のメンバーで構成されています。
2か月間の検討の結果、懇談会から「心身障害者のためのコロニー設置についての意見」がだされました。その内容は「長期に収容保護する施設であるコロニー」案で、大規模コロニー開設の意見が具申されています。
そして昭和41年11月に厚生省児童家庭局による「国立心身障害者コロニー設置計画(案)」において、コロニーの目標に「終生居住」の用語が入りました。
○糸賀氏のコロニー論
例えば近江学園の糸賀氏は、コロニーをどう考えていたのか。「糸賀一雄著作集」から、一部を引用します。
「重度で二重、三重の複合障害をもっている精神薄弱児のための施設である国立秩父学園とか、重症心身障害児の療育施設である島田療育園やびわこ学園でさえ、そこがその子の生涯のコロニーとなる、といきなり予定されているのではない。むしろ、再び家庭やまたは次の段階として必要な施設に、より人間的に発達しつつ社会復帰するということを目的としている」
「学校も、施設も、コロニーも、現実の社会から遊離された閉鎖的なものであるべきではない。社会のなかにあって、社会のいとなみとして、社会と深いつながりのある、社会そのものでなければならない」
「終着駅としてのコロニーではなくて、社会のなかで立派に活動している人びとの一団となることであり、始発駅としての役割を果たすことになるであろう」
現在の視点に近い思想もある、コロニー推進論であることが察せられます。
○政策は保護と分離
昭和40年代には、障がいのある児を親が殺す事件が複数発生し、施設への入所を進めるべきという世論の形成につながります。
この時期、世界ではすでに、終生保護に反対するノーマライゼーションの思想や脱施設化へ向かう動きがありましたが、日本では保護と分離に政策が向かいます。
昭和45年には、心身障害者対策基本法が制定され、法的にも施設収容等による保護に力点が置かれました。
日本の福祉にノーマライゼーションの理念が普及するのは、昭和の終わり、1980年代まで待たなくてはなりません。
(本稿は2021年2月に執筆しました)