障がい児への支援活動の始まり「おぎゃー献金」と「あゆみの箱」

「おぎゃー献金」と「あゆみの箱」

1963年に「重症心身障がい児」や「手足の不自由子供たち」への2つの献金活動が始まりました。ワクチン不足により小児麻痺が流行し、そして多くの重度障がい児は、居場所がなく家庭内で療養をしていた時代です。十分とはいえなくとも、この活動により、障がい児・者への支援の意識が社会に広がりました。2つの活動のあらましを紹介します。

「おぎゃー献金」

○発案者は産婦人科の医師

遠矢善栄氏は8歳の時に母親が出産で亡くなりました。その経験から志を立て、産婦人科の医師となります。そして医師として難産に立ち会い、なんとか母子の命を救うことが出来ても、子供に障がいが残る経験をします。そのような悩みを抱えながら、重度障がいのある三姉妹を家庭で療育する家族と出会い、重症心身障がい児がより良い環境で療育できるための支援運動を提案しました。

○産婦人科医の総会で献金を提案

遠矢善栄氏が提案をしたのは、1963年の日本母性保護医協会鹿児島県支部の総会です。提案の骨子は、健康な赤ちゃんを授かった家族や立ち会った医療関係者に、少額の寄付を募る活動です。提案は満場一致で可決され、「おぎゃー献金」が生まれました。翌1964年には全国大会で提案し満場一致で可決。同年7月1日に、東大分院講堂において「おぎゃー献金全国運動発足の集い」が開催されました。

○募金要領

募金箱は各地の産婦人科に置かれました。募る献金額は一人10円です。

○献金実績

1964年7月1日に設立された財団法人は、現在「公益財団法人 日母おぎゃー献金基金」として活動を継続しています。

2018年度までの実績で、総献金額は62億円、助成した先は延べ1,286の施設と806の研究機関、助成金額総計は約40億円と公開されています。

「あゆみの箱」

○芸能人が始めた活動

1963年に伴淳三郎氏が、心身障がい児施設を訪ね、小児麻痺の子供たちと交流しました。この時期、森繁久彌氏もご家族で募金活動を行っていました。この二人が中心になって、役者仲間と、劇場や街頭、ロケに行く列車の中で募金を呼びかけたのが始まりです。

当初の募金箱は、大道具さんに撮影現場の残り木で作ってもらったそうです。

○TV番組でアナウンス

1965年に伴氏と森繁氏はフジテレビの「小川宏ショウ」に出演し、この活動をPRしました。この時点で募金は700万円集まり、その募金で歩行器を購入して全国120か所の施設に寄付することを発表。大きな反響がありました。

○字体は公募の障がい児の作品

同番組で募金の名称は「あゆみの箱」と発表。「この募金箱によって手足の不自由な子どもたちが歩めるようにと思いを込めた」と説明されました。

また「あゆみの箱」の「字体」を公募し、大分県別府市の県立養護学校整肢園校舎に在校していた小学校4年生がクレヨンで描いた字体が採用されました。

○活動実績

1965年からは、賛同する芸能人によるチャリティーコンサートが始まりました。それらの収益金も含めて、毎年12月に福祉施設への寄付が行われました。

2017年に公益社団法人あゆみの箱は解散しています。

「おぎゃー献金」と「あゆみの箱」は、障がい児への民間支援活動の始まりです。

(本稿は2021年2月に執筆しました)

別稿で「戦後日本 障がい者福祉 始まりの歴史をやさしく解説」を掲載しています。ご参照ください。