日本では戦後、精神障がい者は社会的に危険であるとされ、病院に隔離収容する政策がとられました。1950年代から60年代にかけてWHOに精神衛生顧問派遣を要請し、4人の顧問から勧告を受けながら、なぜ他の先進国とは逆の方向に進んだのか。日本が歩んだ精神障がい者の人権の歴史を概説します。
○精神障がい者は家族の責任
戦前の日本における障がい者福祉政策は、傷痍軍人に限定されていたといっても過言ではありません。障がい者の生活は、すべて自助が基本です。
特に精神障がい者は、取締りの対象になっていたほどで、その人権は完全に否定されていました。
そして精神障がい者が他者に危害を加え無いように管理するのは、家族の責任でした。この考え方は、法律でも平成時代まで残り、現在でも日本社会に根付いています。
したがって戦前の日本では、実家の「座敷牢」に閉じ込められた生活を送る精神障がい者が珍しくありませんでした。
逆にいえば、精神病院に入院する患者は少なく、特に老人の入院患者が欧米諸国に比べると極端に少なかったのが特徴です。認知症の老人は家族の責任で介護していました。
家族責任主義により入院患者が少ないことで、当然のことながら精神病院の規模は小さく、数も少ない、そして精神科医も少なく、その専門性と社会的な地位は、他の医科に比べて一般に低いものでした。
○敗戦による混乱
空襲による精神病院や家屋の喪失、貧困、食糧不足、衛生状態の悪化。敗戦により、従来どおり家族の中で暮らせない精神障がい者が現れます。またヒロポンなどの薬物の乱用による精神障がい者が増加します。被災した精神病院がある状況で、社会秩序、治安の維持のために、市中から精神障がい者を隔離して収容する必要が増しました。
1950年に成立した精神衛生法は、精神障がい者を在宅から強制的に精神病院に入院させる法律です。その骨子は、戦前同様に家族に責任をもたせて保護義務を課しながら、都道府県知事権限で公的監置をする隔離強制収容、措置入院や同意入院を実施することにあります。
戦後の日本は、全体としては憲法に基づいた民主主義と、基本的人権の尊重に取り組み始めましたが、精神障がい者に対しては、改めて人権を無視する制度で再スタートしました。
1950年代になると、検査鑑定の拡充などにより、隔離強制収容すべき精神障がい者の絶対数が増加、精神病床を増やす必要に迫られます。
○WHOへの精神衛生顧問派遣要請
1952 年に国立精神衛生研究所が設置されました。政府は今後の精神障がい者対策、精神衛生行政と国立精神衛生研究所事業の指導のために、WHO に対して精神衛生顧問の派遣を要請します。WHO からは 1950年代から1960 年代にかけて計4 回、4 名の顧問が派遣され、報告と勧告がおこなわれました。
1953年ポール・レムカウは、専門性の向上が必要とし、特に地域での生活に関する心理学やソーシャルワークの導入を勧告しました。現在の視点でいえば地域移行です。
同じく1953年ダニエル・ブレインは、デイケアと総合病院精神科外来の増設、入院医療中心の医療から地域中心の医療に切り替えることを勧告しています。
1960年のモートン・クレーマーは、増加する精神障がい者に対する、コーホート調査など科学的なアプローチの重要性を勧告しています。
そしてもっとも有名なクラーク勧告は、1968年に行われました。
○ライシャワー事件による反動
WHOの精神衛生顧問から、その時代の世界標準に基づく勧告を3回受けたことにより、厚生省でも現状に対する問題意識をもった精神衛生法改正に向けての協議が行なわれた形跡はあります。
その渦中、1964年春に、精神障がい者による米国ライシャワー駐日大使への刺傷事件が起こりました。秋には国の威信をかけた東京オリンピックを開催する年です。
警察庁から厚生省に対し法改正の意見具申、外務省はじめ各省庁からの圧力、そしてマスコミも一大キャンペーンを張り、精神障がい者の危険性が声高に叫ばれました。
事件後に精神衛生法は改訂され、精神障がい者への保健所による訪問指導体制、警察官通報による監視管理体制などが正当化されます。
戦後に改めて開始された人権を無視した精神障がい者への政策、それに対する3回に及ぶ世界からの勧告、それを受けた国際標準に近づける国内議論。ライシャワー事件により、この流れが変わり、国際標準に背を向けた、精神障がい者の人権を否定する方向に、また日本は走り始めました。
○無視されたクラーク勧告
WHO から 4人目の精神衛生顧問として招聘されたのがデビッド・クラークです。もちろん日本政府からの要請に基づく派遣です。派遣依頼はライシャワー事件後の1966年に行われています。
クラーク氏は1967年に来日し、3カ月の調査を実施し、1968年にクラーク勧告をまとめています。
クラーク勧告は様々な角度、切り口から日本の現状を分析した上で、政府がすべきこと、精神病院が取り組むべきこと、育成すべき専門家など、今後の道筋を明確に勧告しています。その多くは、現在の視線では常識的な内容です。
この時点でクラーク勧告に沿う方向に政策の舵を切っていれば、日本の精神障がい者の人権問題は、大きく変わっていたはずです。しかし日本政府は、クラーク勧告に従いませんでした。後世の研究者の多くは、政府はクラーク勧告を無視したと判断しています。確実な証拠はありませんが、無視した大きな理由の一つは、ライシャワー事件に由来することだと推定されます。
この行政判断により、日本は精神障がい者の人権無視を続けます。ライシャワー事件による世論の形成と、それによるクラーク勧告無視が、日本が世界標準から外れていく契機になってしまいました。
(本稿は2021年2月に執筆しました)