障がい児への国としての福祉の歴史は、戦後から始まります。1947年12月に「児童福祉法」が公布され、翌1948年から「肢体不自由児施設」と「精神薄弱児施設」の開設が始まりました。
しかし重度で重複した障がいのある子どもは、その後10年以上の長期間、法律と制度の狭間にいる存在で、大島分類考案者の医師大島一良氏の言葉によれば「重複障害のある児の親たちは、肢体不自由児施設に行って受診しても、精薄を伴うという理由で断られ、精薄施設に行っては、肢体不自由があることによって拒否されてしまう」状態であったそうです。
その後多くの人の努力により、重度重複した障がいのある人が「重症心身障害児」という名称で公的な福祉の対象になりました。現「島田療育センター」に対して国家予算がついた1961年が、「重症心身障害児」への国としての福祉の始まりとされています。
重度重複した障がいのある人のために尽力した先人や組織の「想い」や「言葉」を紹介します。
島田療育園初代園長 小林提樹氏
「この子は私である。あの子も私である。どんなに障害が重くても、みんなその福祉を守ってあげなければと、深く心に誓う。」
小林氏は戦後すぐから日本赤十字社で小児科医として勤務し、重度重複した障がいのある子の医療と福祉の確立に尽力されました。
近江学園創設者 糸賀一雄氏
「この子らを世の光に」
糸賀氏は終戦直後から戦争孤児、そして重度の知的な障がいのある子を世話し、更に医療が受けられるように尽力されました。
びわこ学園初代園長 岡崎英彦氏
「本人さんはどう思ってはるんやろ」
岡崎氏は近江学園の糸賀氏の活動に協力した医師です。近江学園が改組して「びわこ学園」になり、園長に就任されました。
施設は「入所施設」と「病院」なので、児童福祉法と医療法の規制を受けます。そのためこの時代は、島田療養園の小林先生や、びわこ学園の岡崎先生のように、医師が組織のトップにつく必要がありました。
秋津療育園初代理事長 草野熊吉氏
「あの子供たちに楽園をつくろう」
草野氏は家庭裁判所の調停委員で、障がい児がいる家庭の離婚裁判に関わり、問題の大きさに心を痛め、施設を立ち上げました。
全国重症心身障害児(者)を守る会の基本理念
「最も弱いものをひとりももれなく守る」
1963年に発足した幅広い活動をしている団体です。
ねむの木学園のモットー
「やさしくね やさしくね やさしいことはつよいのよ」
宮城まり子さんが1968年に設立した学校です。
(本稿は2020年5月に執筆しました)