知的障がい 名称と定義および判別基準 変遷の歴史

《明治から戦前》

日本では明治年代の医学書において、知的障がいに関する記述が残されています。

1876年の「精神病約説」では、知的障がいは「痴呆」と称され「脳の発育欠乏するがために、精神の発達もまた阻滞するものにして、先天のものあり、生後直ちにこれに陥るものあり」と定義されています。

1894年の「精神病学集要」では、「精神発育制止症」「白痴」と称され「不治永患」、つまり医学的な治療法は無いと記述されています。

その後しばらくは、医学界全般では、知的障がいの名称は白痴、医学的な治療法はなし、の状況が続きますが、1897年に改称された「滝乃川学園」は、知的障がい児のための教育施設として、白痴の発達を促すための治療と教育が実施されていたことが記録されています。

 

昭和になった1930年代には、日本医学会と国際的な学会との関係も深まり、白痴に変わり名称は「精神薄弱」が用いられるようになりました。

 

《戦後~1950年代》

戦後になり、障がい者福祉は、社会政策になります。

1947年「児童福祉法」制定、そして1949年には精神薄弱児施設が、日本で初めて法に規定されました。

1953年の文部省事務次官通達「教育上特別な取扱を要する児童生徒の判別基準について」では、「精神薄弱」の3段階のレベルが示されました。その区分名称は「白痴・痴愚・魯鈍」で、該当するIQや心身状況の目安が示されています。

その中で日本の行政としての初めて知的障がいの定義が示されています。それは「種々の原因により精神発育が恒久的に遅滞し、このため知的能力が劣り、自己の身辺の事がらの処理および社会生活への適応が著しく困難なもの」です。

その一方で、同年に厚生省から出された「知精神薄弱児施設運営要領」では、「精神薄弱というものは、単に知的欠陥のみならず身体的方面においても又感情的、或いは意志的方面においても通常種々の障害を伴っている場合が多いので、精神薄弱児の定義においても、心理学的、医学的(精神医学を含む)、或いは教育学的、社会学的な立場により、又それぞれの学者により異なっており、一定した定義は下されていない。」としています。つまり判別基準の設定は困難であるとしています。

 

《1960年代》

1962年には、文部省初等中等教育局長通達が発出され、そこでの3段階区分の名称は「重度精神薄弱」「中度精神薄弱」「軽度精神薄弱」に変更されています。

この1962年の通達での判別基準を抜粋します。

「重度精神薄弱」(Q20ないし25以下)

言語の理解もせず、自他の意志交換および環境への適応が著しく困難であって、日常生活における衣食の上においても常時全面的に介護を必要とし、成人になっても自立困難で、その発達が2-3歳程度までと考えられるもの。

「中度精神薄弱」(IQ20ないし25-50程度)

環境の変化に適応する能力が乏しく、他人の助けによりようやく自己の身辺の事柄を処理し得るが、成人になってもその発達が6-7歳程度までと考えられるもの。

「軽度精神薄弱」(IQ50-75程度)

日常生活に差し支えない程度に身辺の処理をすることができるが、抽象的思考や推理が困難であって、成人段階でその発達が10ないし12歳程度までと考えられるもの。

この他に「境界線児」(ボーダーラインの児童生徒)については、以下の内容が記されています。

精神薄弱者と正常者の中間にある境界線児(IQ75から85の程度)は、普通学級において留意して指導するか、または学級編成につき特別の考慮を払うことが望ましいこと。なお、状況によっては、精神薄弱者を対象とする特殊学級において教育しても差し支えないこと。

 

《1970年代》

現在に至るまで法律の規定のない療養手帳については、1973年の厚生省児童家庭局長通知で、18歳以上の知的障がい者に対する、以下の基準が示されました。

・障害の程度により 、療養手帳はA(重度)とB(その他)に区分される 。

・Aの判定基準は、知能指数がおおむね35以下(肢体不自由 、盲、ろう等の障害をもつ者は50以下)と判定された者で、日常生活における基本的な動作(食事、排泄、入浴、洗面、着脱衣等)が困難であって、個別的指導及び介助を必要とする者、または失禁、異食、興奮、多寡動その他の問題行為を有し、常時注意と指導を必要とする者。

・Bはそれ以外の程度の者

 

《1990年代》

「精神薄弱」はドイツ語の医学用語の和訳です。その差別的な表現に対して、1960年代から改称すべきという意見があり、1993年には、障がい者団体などからは、疾患名は「精神遅滞」、障害区分は「知的障害」という案が提案されています。

行政の公的な記録では、1995年に厚生省心身障害研究班で、「精神薄弱に替わる用語として知的発達障害、 簡素化して知的障害と呼称する」と結論づけられました。

 

1990年代は、知的障がいの新しい判別基準が世界で複数提唱されています。

影響力があったのは「アメリカ精神遅滞協会(AAMR)」が1992年に発表した「精神遅滞の定義」です。

AAMRの92年の定義には、その適用にあたって4つの前提があります。

・妥当な評価をするためには、個人差だけでなく、文化的 ・言語的な多様性を考慮する必要がある 。

・適応スキルにおける制約は、同輩にとっても典型的な地域社会環境の中での制約であって、それは 個別的な二一ズを示すものである 。

・ある適応スキルが制約を受けていても、別の適応スキルでは優れていることが少なくない。

・一定期間にわたって適切なサポートが受けられるのであれば、生活の機能的状態は一般的に改善する 。

この前提を踏まえた定義が以下の3要件になります。

○知的機能が明らかに平均より低い。

○少なくとも2つの適応スキルに明らかな制約がみられる。

○発症は18歳未満。

前提及び定義で用いられている「適応スキル」とは何か。以下の10種類のスキルです。

「意思伝達」…記号的行動(話し言葉 ・書き言葉 ・身ぶり・手話など)/又は非記号的行動(表情・動作など)を通じて情報を理解し、表現する能力に関するスキル

「身辺処理」…トイレ /食事/着脱衣/衛生/身だしなみに関するスキル

「家庭生活」…衣類のケア/ハウスキーピング/財産管理/食事の準備と調理/買い物の計画と予算等に関するスキル

「社会的/対人的技能」…他者との社会的やりとりに関するスキル

「地域社会資源の利用」…買い物行く、病院に行く、公共の交通機関を利用する、文化施設を利用するなどのスキル

「自己指南」…計画に従って行動する/状態 ・状況・個人的興味の程度に応じて適切に行動する/義務の履行/必要とする援助を探す/身近な或いは新しい問題に直面したに時に問題を解決する/主張と自己権利擁護、などを選択するスキル

「健康と安全」…健康管理(食事/病気の認知・対処・予防/基本的応急処置/性/身体を健康な状態に保つ/身体と歯の定期検査の受診)、安全への配慮(規則と法律の遵守/シートベルトの着用/道路の横断/助けを求める)、及びその他(犯罪行為からの自己防衛/地域の中で適切な行動をとる)に関するスキル

「機能的学習能力」…読み/書き/計算/科学/地理/社会科など、学校での学習に関わるスキル:(注:この分野において重要なのは自立生活に必要な実用的スキルの獲得とする)

「余暇」…個人の選択に基づく様々なレジャーと娯楽の開発に関するスキル

「仕事」…地域社会においてパートやフルタイムでの仕事を行うことに関するスキル(業務の遂行/スケジュールの認識/援助を探し、批判し、技術を向上させる能力/金銭管理と財産の配分/他の実用的スキルの適用/通勤・仕事の準備・仕事中の自己管理/仕事仲間との対人関係)

判別に具体的な適応スキルを導入したこと、そして前提条件に社会環境やサポートによる改善可能性が設定されていることが、これまでの定義との違いです。

 

1990年代に、日本における重度の知的障がい者を定義する公的な文書としては、1993年に労働省から発出された「障害者の雇用の促進等に関する法律の一部を改正する法律による重度精神薄弱者の取扱いに係る留意事項について」の中に、以下の重度精神薄弱者判別基準があります。

・知能検査によって測定された知能指数(IQ)が50未満の精神薄弱者であって、労働省編一般職業適性検査の手腕作業検査盤を使用し、その評価のいずれかが中以下であるもの。

・知能検査(IQ)が50以上60未満の精神薄弱者であって、精神薄弱者社会生活能力調査票によって調査された「意志の表示と交換能力」「移動能力」及び「日常生活能力」のうちいずれか2つの能力の評価が中以下であるもの。

このように「適応スキル」の考え方が、判別基準に部分的に取り入れられています。

 

《2000年代》

日本では2003年に支援費制度が導入され、そして2005年に成立した「障害者自立支援法」で、障がい者に「障害程度区分」が設定されることになりました。その後に「障害支援区分」と名称変更されましたが、知的障がい者の重度を判別する制度は、現在まで継続しています。

判別方法は、調査票を用いて設定された項目の評価を行い、その結果を集計します。項目は「移動や動作等に関連する項目」、「身の回りの世話や日常生活等に関連する項目」、「意思疎通等に関連する項目」、「行動障害に関連する項目」、「特別な医療に関する項目」などがあり、改良が重ねられています。これをもとに一次判定、そして二次判定で「障害支援区分」が決まります。

現在のこのような手法でも、知的障がいの判定は難しく、身体障がいに比べて、一次判定と二次判定の変更率は一般に高くなります。

 

2000年代には、知的障がいとしての発達障害が認知されるようになりました。

2004年に公布された「発達障害者支援法」では、「自閉症、アスペルガー症候群その他の広汎性発達障害、学習障害、注意欠陥多動性障害その他これに類する脳機能の障害であってその症状が通常低年齢において発現するものとして政令で定めるもの」と発達障害が定義されました。この文中の「その他」は「厚生労働省の省令で定められ、吃音や、トゥレット症候群、選択性緘黙が含まれる」とされています。

そして「発達障害者支援センター」で、発達障害の早期発見、早期支援、就労支援、発達障害に関する研修をおこなうとともに、発達障害児に関わる他の領域との調整をおこなうことが定められています。

「発達障害者支援法」は、2016年に改正され、「発達障害者の支援は社会的障壁を除去するために行う」こと、「乳幼児期から高齢期まで切れ目のない支援、教育・福祉・医療・労働などが緊密に連携」すること、などが新たに定められています。

発達障害に関しては、このように名称、定義は法律で定められていますが、判別に一律的な基準はありません。

 

《東京都療養手帳の判別基準》

東京都の「愛の手帳」は最重度の1度から4度まで、知的障がいを4段階で判別しています。現在公表されている、18歳以上を対象とした判別基準は以下です。

「1度」…知能指数(IQ)がおおむね19以下で、生活全般にわたり常時個別的な援助が必要。言葉でのやり取りやごく身近なことについての理解も難しく、意思表示はごく簡単なものに限られる。

「2度」…知能指数(IQ)がおおむね20から34で、社会生活をするには、個別的な援助が必要。読み書きや計算は不得手ですが、単純な会話はできる。生活習慣になっていることであれば、言葉での指示を理解し、ごく身近なことについては、身振りや2語文程度の短い言葉で自ら表現することができる。日常生活では、個別的援助を必要とすることが多くなる。

「3度」…知能指数(IQ)がおおむね35から49で、何らかの援助のもとに社会生活が可能。ごく簡単な読み書き計算ができるが、それを生活場面で実際に使うのは困難。具体的な事柄についての理解や簡単な日常会話はできますが、日常生活では声かけなどの配慮が必要。

「4度」…知能指数(IQ)がおおむね50から75で、簡単な社会生活の決まりに従って行動することが可能。日常生活に差し支えない程度に身辺の事柄を理解できるが、新しい事態や時や場所に応じた対応は不十分。日常会話はできますが、抽象的な思考が不得手で、こみいった話は難しい。

ただし「判定基準の一部分について例示したものであり、最終的には総合判定により障害の程度が決められる」としています。

(本稿は2021年1月に執筆しました)

障がい者福祉の歴史 平成の大転換政策「支援費制度」の功罪

戦後から始まった日本の障がい者福祉政策の中で、歴史的な転換となったのは2003年に導入された「支援費制度」です。

支援費制度が生まれた背景、制度がもたらした障がい者福祉の変革と課題、そしてその後の福祉政策に与えた影響を振り返ります。

 

○障がい者が「利用者様」になったインパクト

行政処分としてサービスを決定していた措置制度から、支援費制度では、障がい者がサービスを選択し、契約をする制度に変わりました。支援費制度とは、行政からの支給が「措置費」から「支援費」に変わったことが語源です。サービスを提供する事業者から、障がい者が「利用者様」と呼ばれるようになりました。

当時の情勢は、2001年に国連で「障害者の権利および尊厳を保護・促進するための包括的・総合的な国際条約」決議が採択されるなど、障がい者福祉における国の責任が増していました。

一方、日本の財政はバブル崩壊以後の経済ダメージが激しく、すでに700兆円程度の財政赤字に転落しています。

民間活用による福祉サービスの向上と、財源の約半分を地方へ移管することで国家財政負担を軽減することの両立を目指して導入されたのが支援費制度です。

この当時から、2000年に導入された介護保険制度に障害者福祉を組み入れる検討は行われています。しかしさすがに介護保険の保険料を財源にする案は見送られ、支援費の財源は税収となりました。

なお支援費制度の対象となるサービスは「身体障害者、知的障害者、障害児福祉サービスのうち、現在措置制度によってサービス提供がなされているもの」と狭義に定義され、措置制度の対象外である、小規模通所授産施設でのサービスや手話通訳事業など、そして精神障がい者や難病患者へのサービスは明確に規定されずに、原則として支援費の対象外とされています。

 

○需要の顕在化と財政破綻の功罪

大きな目的の一つが国家財政の維持でしたが、支援費制度導入初年度に100億円超の予算超過となり、国の補助予算が組まれました。

これはホームヘルプサービスなどの居宅サービスの利用実績が、措置制度時代に比べ、2倍近く伸びたことが主因です。

サービス利用が伸びた理由は大きく2つあります。

サービスを受けたくても行政のサービス拠点が無かったエリア、または少なかったエリア、つまり潜在需要があるエリアに民間のサービス事業所が進出したことで、新規にサービスを利用する障がい者が増加したこと。

そして、これまでの措置制度における一律的な行政判断が、各地方自治体によって上乗せ判断が可能になったことです。

このことは、都道府県や市町村単位での福祉サービスに格差をもたらしました。当時のホームヘルプサービス利用時間実績は、都道府県間の最大格差が4.7倍あります。また都道府県ごとの人口当たりの支給決定者の数は最大で7.8倍の格差になりました。

支援費制度導入2年目には、国の予算超過額が200億円を超え、国家財政面において支援費制度は実質破綻しました。

地域格差の問題はありますが、支援費制度の導入によって、障がい者の福祉サービスニーズが掘り起こされ、そのことが財政破綻を招くことになりました。しかしながら、これまで封印されていた障がい者のサービス需要が顕在化したことは、支援費制度の功績です。

 

○2006年障害者自立支援法への影響

2006年には国連総会で「障害者権利条約」が採択されます。掘り起こされた障がい者のサービス需要への不十分な対応、措置制度からの単純移行に伴う法の未整備、そして財源の不足など、2005年から2006年の日本の障がい者福祉の状況は、「障害者権利条約」を批准できるレベルではありませんでした。日本が同条約を批准したのは2014年で、141番目の締約国です。

財政的に破綻した支援費制度に変わって、2005年には、国際標準の障がい者福祉の実現と財政の両立を狙った障害者自立支援法が公布されます。新法の内容には、支援費制度が与えた大きなインパクトが色濃く反映されています。以下が主な支援費制度のレガシィーです。

・これまで曖昧であった、法律上の障害者を定義「この法律において障害者とは、身体障害者、知的障害者のうち18歳以上である者、及び精神障害者のうち18歳以上である者をいう」。

・地域間格差を解消するために市町村にサービス提供の一元的な提供責任を定める。

・支給決定のプロセスの明確化と透明化のために、障がいの状態を示す全国共通の尺度として「障害程度区分」を導入する。

・「応能負担」から「応益負担(原則1割)」へと移管し、財源の負担を軽くする。

支援費制度がもたらした財政破綻のインパクトがあまりにも大きかったために導入された「応益負担」は、障がい者からの猛反発にあい、障害者自立支援法は2010に「応能負担」への改正に追い込まれました。

これによって障害者自立支援法は悪法であったと評価されますが、しかしながら、支援費制度のインパクトによって顕在化した「制度の谷間の障がい者」「地域格差」「決定プロセスの曖昧さ」などの課題は、多くの問題はあるものも、小さな一歩は踏み出しています。

日本の障がい者福祉が、次のステージに進むのは、2012年の「障害者総合支援法」の公布まで待ちます。これによって「自立の支援」から「障害者の日常生活及び社会生活を総合的に支援するための法律」に変わり、障がい者の範囲に難病等が追加され、障がい者に対する支援の拡充などの改正が行われました。

 

○支援費制度が残した今に残る課題

障がい者福祉の歴史における大転換政策であった支援費制度の導入以後、障がい者福祉サービスを提供する事業者は飛躍的に増加し、サービスは多様化し、その質も全般的には向上しています。

障がい者側が利用するサービス選び、そのサービスを提供するのは主に民間事業者であり、行政は主に判定と支給を行う。この基本スキームは、これからも継続すると思われます。

しかしながら支援費制度が残した、財政、行政、民間、そして障がい者側に関わる課題は今に残ります。

日本の財政赤字は拡大しています。現在の応能負担の「高額所得者」の基準や「負担率」は、法律上政令で変えることができます。いつ、どのような負担に変わるのか、分かりません。

障がいに等級を付与することは「障がいの社会モデル」に反するため、現在では「障害程度区分」から「障害支援区分」と名称が変わっていますが、行政が障がい者に等級を付与して、サービス提供に制限を与えることができます。完全な「支給決定のプロセスの明確化と透明化」は困難であり、自治体の財政状況が主因となる地域格差は、なくなったとはいえません。

障がい者福祉の分野に、数多くの民間事業者が参入しています。例えばサービスの質が悪い放課後等デイサービス事業者が問題になったことがあります。支援費制度がもたらした、官から民へのシフトは、自由経済の必然としてサービスの玉石混合をもたらします。

そして障がい者側が、何を望んでいるのかを正確に発信し、良いサービスを正しく選択する「利用者様」にならなくてはなりません。特に重度重複障がい児・者とその家族にとっては、正解がみえない、重い課題です。

(本稿は2021年1月に執筆しました)

日本の障がい者福祉の歴史 知っておきたい過去の常識

合理的配慮の提供、障がいの社会モデルなどに代表される、現在の障がい者福祉の常識と、過去の障がい者福祉の常識は異なります。障がい者福祉の黎明期から、忘れてはならない日本の障がい者福祉の歴史上のポイントを、7つの視点から紹介します。

 

○名称の変遷

法律や制度において障がいに関わる名称・呼称が制定されています。その時代の常識がうかがえる、戦後の主な名称の制定と改正の歴史を抜粋します。

・1946年「官立盲学校及び聾唖学校官制」公布

・1947年「学校教育法」が公布され、「養護学校」及び「特殊教育」を規定

・1947年「職業安定法」が公布され、「身体障害者公共職業補導所」を設置

・1956年「公立養護学校整備特別措置法」公布

・1960年「精神薄弱者福祉法」制定

・1966年「重度精神薄弱児扶養手当法」から、支給対象を拡大して「特別児童扶養手当法」へ改正

・1981年「障害に関する用語の整理のための医師法等の一部を改正する法律」が公布され、つんぼ・おし・盲の呼称が改められる

・1988年「精神病者監護法(1900年制定)」が「精神保健法」へ改正

・1993年「職業能力開発促進法」が改正され、「障害者職業訓練校」を「障害者職業能力開発校」へ改称

・1995年「精神衛生法」から「精神保健及び精神障害者福祉に関する法律」へ改正

・1998年「精神薄弱の用語の整理のための関係法律の一部を改正する法律」が公布され、法令上「精神薄弱」の用語が「知的障害」に改められる

・1999年「精神薄弱者福祉法」から「知的障害者福祉法」へ改正

・2006年「学校教育法」が改正され、「盲学校」「ろう学校」「養護学校」が「特別支援学校」に一本化される

 

○高木憲次先生の定義

肢体不自由児療育運動で高名な高木先生は、1934年の講演で肢体不自由児を以下のように定義しました。

・智能は健全である

・整形外科的治療により生産的に国家社会に尽すことができる

「整肢療護園」の開園は1942年です。

現在からみれば、戦後直後に制定された福祉三法の、「経済的自立可能性」を前提にした、「訓練主義的」な思想の前段階といえる考え方です。もちろん肢体不自由児支援事業を成功させるために、一般受けするための表現でもあったはず。裏を返せば、知的障がい者や社会活動ができない重度障がい者は、生きづらい時代でした。

高木先生は、脳性麻痺などの重度重複障がい児を「不治永患児」と呼び,肢体不自由児とは異なる体系での療育の必要性を訴えています。

民法及び民法施行法が改正され、身体障害が準禁治産宣告の要件から廃止されたのは1979年です。

 

○重度重複障がい児・者は制度の狭間

身体そして知的に重度な障がいのある児は、1948 年に制定された「児童福祉法」他の福祉関連法では、障がい福祉の対象ではありませんでした。

身体障がい児のための「肢体不自由児施設」と、知的障がい児のための「精神薄弱児施設」は制度設計されましたが、いずれも「独立自活に必要な知識を与えることを目的とする施設」と定義されたため、重度重複障がい児は受け入れられません。

幾多の苦難を乗り越えて、重度重複障がい児のための施設の草分けとして有名な「島田療育園」「びわこ学園」「秋津療育園」が認可されたのは1960年代です。

島田療育園に大蔵省から研究費として 400 万円の委託費が認められたのが1961 年 。そして1963 年に「厚生省事務次官通達」で「医療法に基づく病院であって重症児の療育に適しているもの」と指定されました。ただし「医療法による病院であるが 18 歳未満」という年齢制限が適応されています。

年齢制限が撤廃されたのは1966 年の厚生省事務次官通達改訂で、「身体的・精神的障害が重複し、かつ、それぞれの障害が重度である児童および満 18 歳以上の者」とされました。

重度重複障がい児の呼称は、1967 年の児童福祉法改正で「重症心身障害児」と定義されています。

 

○精神障がい者の人権~ライシャワー事件と宇都宮事件

精神障がい者は、過去取締りの対象でした。1875年には「路上の狂癲人の取扱いに関する行政警察規則」が定められています。現在でいう強度行動障害者なども該当していたはずです。

1900年には「精神病者監護法」が制定され、国ではなく「家族」などの責任で精神障がい者を隔離し、その監視権を警察にもたせています。

1950年に「精神衛生法」が公布されましたが、精神障がい者の入院や隔離、その責任は家族という基本的な政策は、明治以来変わっていません。

そして1964年に、「精神分裂症」の青年が、米国ライシャワー駐日大使を刺傷する事件「ライシャワー事件」が発生し、世論はより厳しい精神障がい者の隔離、監視へと傾きました。その結果、1965年に「精神衛生法」は、より社会的防衛を強化する改訂が行われました。

これは当時としても世界の常識とは異なる政策で、1968年には、WHOが「クラーク勧告」に基づき、日本の閉鎖的収容主義的な精神医療の在り方を非難しています。

その後も永く日本の精神障がい者福祉の在り様は変わりませんでしたが、1984年に、精神病院内で著しい人権侵害がおこなわれている「宇都宮事件」が明らかになりました。

この問題は「国連人権小委員会」でも取り上げられ、「日本における精神障害者の人権と処遇に関する国際法律家委員会及び国際医療従事者委員会合同調査団の結論と勧告」が1985年に発表されています。

このような国際社会の圧力等を契機に精神衛生法は改正されて、1988年に精神保健法として施行されています。日本における精神障がい者の人権は、平成時代になってやっと社会的に認められ始めました。

しかし家族責任主義はまだ残ります。1998年には、仙台地方裁判所が精神障がい者の家族に対して、1億円の損害賠償を命じる判決を行いました。これを契機に1999年に「精神保健福祉法」が改定され、家族の「自傷他害防止の監督義務」は法文から削除されました。

 

○障害児の全員就学体制と分離教育

インクルーシブ教育は、日本では取り組みが始まったばかりの教育システムです。

それまで就学猶予・免除の扱いとされてきた障がい児の養護学校全員就学は、1973年に義務制の実施を予告する政令が公布され、1979年に実施されました。

世界的にはこの時期に、統合教育、そしてインクルーシブ教育への取り組みが始まっていますが、1980年代以後も、日本では原則分離の教育形態が障がい児教育の基盤です。

2006年には学校教育法が改正されて、特別支援教育は特別支援学校に一本化されましたが、原則分離の教育形態に変更は加えられていません。

 

○らい予防法の廃止と難病患者への福祉行政

患者が強制隔離される「らい予防法」が廃止されたのは、1996年。

患者の差別と偏見をあおる「エイズ予防法」が「感染症予防法」に改正されたのが1998年。

一方で、身体障がい、知的障がい、精神障がいに該当しない難病患者は、永く福祉制度の狭間におかれていました。難病が明確に障がい者福祉の対象になるのは、2010年代になってからです。

 

○障害者自立支援法の失敗

日本の障がい者福祉の歴史で、2006年から施行された「障害者自立支援法」ほど、多くの問題点が指摘され、全国的な反対運動が起きた政策はありません。

それまでの「支援費制度」が財政的に破綻したため、福祉サービス利用者に費用の10%を負担させる制度です。政府はこれを「応益負担」、または「定率負担」と表現して、障がい者に理解を求めました。しかし政府の常識は、障がい者にとっては非常識でした。

利用者の大反対運動により、早期に改正された福祉制度ですが、行政に福祉サービスの財源がない事実は、現在も変わりません。「介護保険」財源への移行や、「応能負担」の増加などが常に検討されています。「障害者自立支援法」は、形を変えてこれからも繰り返される可能性がある政策として、日本の障がい者福祉の歴史上、忘れてはならない行政府の失敗作です。

 

(本稿は2021年1月に執筆しました)